はじめに|「答え」を探すほどではないときに
「解決策が欲しい」というほど切迫しているわけではない。
けれど、どこか落ち着かない。
考え続けるほど、判断が鈍っていく感覚がある。
そうしたとき、人は長い説明ではなく、
短い言葉に目を留めます。
「禅の言葉」が検索される背景には、
正解や知識を求める気持ちよりも、
いったん思考を止めたいという欲求があるように感じます。
私は、山梨県都留市、富士山麓にある禅寺・耕雲院で副住職を務めています。
寺で多くの方と向き合う中で実感するのは、
禅の言葉は「答え」を与えるためのものではなく、
判断が始まる前に立ち止まるための言葉だということです。
禅の言葉とは何か|意味を教えるための言葉ではない
禅の言葉とは、禅寺の修行や日常の営みの中で
実際に使われ続けてきた短い言葉や四字熟語の総称です。
現在では「名言」や「人生訓」として紹介されることもありますが、
寺の中での扱われ方は大きく異なります。
- 行動を指示しない
- 判断基準を示さない
- 正しさを教えない
禅の言葉は、人を導くための言葉ではありません。
思考が加速しすぎたときに、
その流れを一度止める位置に置かれた言葉です。
なぜ、禅の言葉は短いのか
禅の言葉が短いのは、
分かりやすさや覚えやすさのためではありません。
長い説明は、人を「理解する側」に立たせます。
短い言葉は、人を「分からない状態」に留めます。
禅の実践では、
分からないまま立ち止まること自体が大切にされてきました。
考えを深めるためではなく、
考え続けている状態から一度離れるために。
そのために、言葉は最小限に削られてきたのです。
禅寺で使われてきた代表的な禅の言葉と、その置かれ方
ここでは、禅寺の実践の中で実際に使われてきた
代表的な禅の言葉を紹介します。
意味を理解しようとする必要はありません。
「どう使えるか」を考えなくても構いません。
寺で、どのように置かれてきたかに目を向けてみてください。
👉 禅が「考え方」や「テクニック」としてではなく、空間や在り方として伝えられてきた背景については、こちらで詳しく触れています。
代表的な禅の言葉①|放下著(ほうげじゃく)
放下著の意味は、
「何かを下ろせ」という指示ではありません。
禅寺では、この言葉は
問いとして投げかけられることはほとんどありません。
誰かに助言する代わりに、
掛け軸として、ただそこに示されます。
何を下ろすかは示されない。
下ろせたかどうかも問われない。
判断する前に、
すでに何かを握りしめている自分に気づくための言葉として、
静かに置かれます。
代表的な禅の言葉②|而今(じこん)
而今の意味は、
「今を大切にしなさい」という行動指針ではありません。
寺では、この言葉に時間の説明は添えられません。
「動かなければならない」という前提も置かれません。
而今は、
坐っている人の前に、そのままあります。
動かなくてもいい。
何も決めなくてもいい。
始まらない時間と並んで存在する言葉です。
代表的な禅の言葉③|平常心是道(へいじょうしんこれどう)
この言葉の意味は、
平常であることを目指す、という教えではありません。
寺ではむしろ、
正しくあろうとしすぎた後、
整えようとしすぎた後に、
ふと視界に入ることが多い言葉です。
特別であろうとした痕跡のそばに、
何も言わずに掛けられている。
力が入りすぎた心を、元の位置に戻すための言葉です。
代表的な禅の言葉④|無所得(むしょとく)
無所得の意味は、
「何も得るな」という教訓ではありません。
この言葉には、ほとんど説明が添えられません。
分かろうとすると、距離が生まれます。
意味を持たないまま。
役に立たないまま。
そこにあることが許されている。
何かを得ようとする姿勢そのものを、一度止めるための言葉です。
禅の言葉は「理解」すると働かなくなる
禅の言葉は、
意味を掴もうとした瞬間に、
情報に変わってしまいます。
- どう使えるか
- どう役立つか
- どう解釈するか
そう考え始めたとき、
言葉は本来の役割を終えます。
禅寺では、
禅の言葉を「持ち帰るもの」として扱うことは、ほとんどありません。
その場にあり、その場で役目を終えるものとして置かれます。
👉 禅の姿勢が、日常の思考や選択の中でどのように息づいていくのかについては、
こちらの記事を参考にしてください。
言葉よりも先に、身体が反応する場所
言葉を理解する前に、
身体の感覚が変わることがあります。
呼吸が深くなる。
音が近くなる。
視界が少し広がる。
禅の言葉は、
そうした変化の背景として存在するものです。
前に出ない。
主張しない。
ただ、そこにある。
👉 言葉よりも先に、姿勢や呼吸から整えていく禅の実践については、
こちらの記事で詳しく紹介しています。
富士山麓・都留市の禅寺で行われていること
耕雲院は、山梨県都留市、富士山麓にあります。
この場所で、禅の言葉は特別な解説を受けることなく置かれています。
富士山が見える日も、見えない日も。
言葉の扱いは変わりません。
理解されなくてもいい。
覚えられなくてもいい。
言葉が役目を果たさなくてもいい場所。
もし、
「意味が分からないままでも、不安にならなかった」
そんな瞬間があったなら、
それが禅の言葉が正しく置かれていた状態です。
👉 富士山麓という土地と禅の実践が、どのように結びついてきたのかについては、
こちらの記事で紹介しています。
言葉の前に立ち止まる時間を、実際の場で

禅の言葉が使われてきたのは、
文字として読む場ではなく、
坐り、歩き、沈黙するという実践の中でした。
言葉が前に出すぎない時間に身を置くことで、
初めて、言葉は背景として働き始めます。
耕雲院では、
そうした時間を体験できる場を開いています。
耕雲院で過ごす時間(参考)
- 所要時間:約3〜4時間
- 内容:ヨガ・坐禅・写経(精進料理はオプション)
- 費用:10,000〜15,000円
- 場所:山梨県都留市(富士山・河口湖から車で約40分)
👉 詳細・予約はこちら → 耕雲院公式サイトリンク
副住職・河口智賢より
永平寺での修行は、
禅の言葉を理解する時間ではありませんでした。
坐禅や作法、精進料理といった日常の中で、
言葉よりも先に、
姿勢や態度が問われ続ける時間だったように思います。
現在、耕雲院で案内をする際も、
私は禅の言葉を説明の道具としては扱いません。
意味を伝えるより、
その言葉が置かれている空気と沈黙を大切にしています。
分かったと感じたときよりも、
分からないまま残っているときの方が、
言葉は静かに働くことがあります。
体験者の声
「心の奥に“静けさの余白”が生まれました。」
日常では味わえない深い静寂に包まれる時間でした。自分の呼吸が“帰る場所”になる感覚を体験できました。「坐禅と法話が、自分の生活を見直すきっかけに。」
難しい言葉ではなく、日常の中の“禅”を優しく伝えてくださる方でした。家でも呼吸を意識するようになりました。「ヨガと坐禅の組み合わせが心地よかった。」
身体をほぐしてから坐ると、自然に呼吸が深まりました。富士山の空気と、河口さんの穏やかな声が印象的でした。
よくある質問(FAQ)
Q. 初めてでも大丈夫ですか?
A. もちろんです。姿勢や呼吸法は最初に丁寧にご案内します。
Q. 服装に決まりはありますか?
A. 動きやすい服装であれば問題ありません。
Q. 写経や精進料理は全員参加ですか?
A. 写経は体験に含まれますが、精進料理はオプションです。ご希望の方のみご予約ください。
Q. 坐禅中に眠くなってしまったら?
A. 眠くなるのは自然なことです。眠気に気づくことも禅の一部です。焦らず、呼吸に意識を戻してみてください。
Q. 予約はどこからできますか?
A. こちらのお問い合わせフォームからご予約ください。
まとめ|答えの前に立ち止まる、という選択
禅の言葉は、答えを与えるためのものではありません。
判断を早めるためのものでもありません。
考え続ける流れの中で、
一度立ち止まるための言葉です。
その「間」を、
もう少し長く体験してみたいと感じたとき、
言葉が前に出すぎない時間に身を置く、という選択があります。
富士山麓・都留市の禅寺・耕雲院では、
その時間が、特別な説明なしに流れています。
