禅とマインドフルネスの違いとは?
禅とマインドフルネスの違いは目的にあり、マインドフルネスは“今に気づくための技術”、禅は“気づこうとする心も手放す生き方”です。
そのうえで、両者は「心の扱い方」に共通点を持ちながらも、背景・目的・姿勢に大きな差があります。禅とマインドフルネスは、どちらも「心のあり方」に触れる実践として語られますが、目的や思想には明確な違いがあります。
- マインドフルネス:今に気づくための“技術”
- 禅:気づこうとする心すら手放す“生き方”
どちらが優れているという話ではなく、アプローチが異なるだけです。
この記事では、両者の違い・共通点・背景を整理しながら、富士山麓の耕雲院で実践されている禅的マインドフルネスの考え方にも触れていきます。
いま、静けさが求められている理由
現代社会は、私たちの注意を奪うものであふれています。
通知音、期限、情報、評価。
心が落ち着く前に、次の刺激が押し寄せてくる。
その中で、多くの人が「静けさ」を求め始めました。
その象徴として広がったのが マインドフルネスです。
一方、私が暮らす富士山麓・山梨県都留市の曹洞宗 耕雲院では、
坐禅を中心とした「禅」という形で、
長い歴史の中で静けさと向き合ってきました。
マインドフルネスは「心を整える技術」。
禅は「整えようとする心さえ手放す道」。
似ているようで、その思想には大きな違いがあります。
マインドフルネスとは—意識を「戻す」ための技術
マインドフルネスは、心理学や脳科学の研究とともに発展してきました。
- 呼吸を観察する
- 身体の感覚に気づく
- 思考を評価せず、ただ眺める
—これらは、意識を「いまこの瞬間」に戻す練習です。
仕事のパフォーマンス向上やストレスケアの文脈で語られることが多く、
企業研修や医療現場でも活用されています。
目的は、心を漂わせず、
意識的に今へ戻る力を取り戻すこと。
マインドフルネスは、心の方向を調整するための、ひとつの方法です。
👉 マインドフルネスについては、
「寺でマインドフルネスを本格的に体験・学びたい。」もご覧ください。
禅とは—「気づこうとしない」勇気
それに対して、禅は少し違います。
禅では、心を整えることを目的にしません。
道元禅師はこう述べています。
「仏道をならうとは、自己をならうなり。
自己をならうとは、自己を忘るるなり。」
坐禅は、悟りを得るための訓練ではありません。
そして「雑念を消すための技術」でもありません。
むしろ、
「雑念が湧いている自分に気づいている」
—そのただ中に坐り続けること。
気づこうとしている自分すら手放す。
禅は、操作を止める生き方です。
👉 禅の姿勢や思想については、
「禅寺 座禅|永平寺修行僧が語る、“修行としての坐禅”の意味」をご覧ください。
マインドフルネスの先にある“失敗”
マインドフルネスを実践する人から、しばしば聞く声があります。
「うまくできません」
「集中できません」
「今日は静けさが少なかったです」
その言葉には、
成果・比較・評価という心のクセが含まれています。
でも、本来、静けさは「つくるもの」ではありません。
それは、努力で到達するゴールではなく、
すでにそこにあるものに気づく姿勢です。
静けさを得ようとすると、静けさは遠ざかる。
禅はそのパラドックスを静かに教えてくれます。
日常で育てる“禅的知性”—3つの鍵
禅的な実践は、特別な場所でなくても始められます。
大切なのは、意識の向け方です。
- 止めない
雑念は止めるのではなく、ただ通り過ぎるものとして眺める。 - 掴まない
良い・悪い、進んだ・戻った—その判断を手放す。 - 戻らない
「あるべき自分」に戻るのではなく、
“今の自分がすでにそうである”と受け取る。
これは「感情を無視すること」ではありません。
むしろ、自分を操作しないで見つめる静かな知性です。
👉 日常の中での実践方法は、
「体験 坐禅|初心者でもできるやり方と流れ【富士山麓・耕雲院】」でも紹介しています。
なぜ今、“禅的マインドフルネス”なのか
デジタル社会は、便利で快適ですが、
同時に私たちの内側に「落ち着く場所」を奪っていきます。
マインドフルネスは意識を戻す役に立ちます。
しかし禅は、そのさらに奥にある問いへ向かいます。
「戻す必要がある心とは、どこから離れているのか。」
制御ではなく受容。
効率ではなく余白。
情報ではなく沈黙。
禅的な実践は、
“奪われない心”を日常のなかで取り戻す道です。
富士山麓・耕雲院で体験する“禅的マインドフルネス”
耕雲院では、
“身体で感じる静けさ” を大切にしています。
坐ること、書くこと、呼吸と動きを重ねること—
それらは特別な修行ではなく、
日常の延長にある「気づきの入口」です。
富士山麓の空気に触れながら、
思考ではなく、感覚が先に動き始める時間を過ごしていきます。
その時間が続くと、
「うまくやろう」という意識よりも、
ただ坐ることそのものが中心になっていきます。
雑念があってもかまいません。
追わず、押し返さず、ただ気づくだけ。
そのシンプルさの中で、
外ではなく内側が静まる感覚が静かに育っていきます。
富士山麓で禅を体験する — 耕雲院プログラム
- 所要時間:約3〜4時間
- 内容:ヨガ・坐禅・写経 ※精進料理はオプション
- 費用:10,000〜15,000円
- 場所:山梨県都留市(富士山・河口湖から車で約40分)
👉 詳細・予約はこちら → 耕雲院公式サイトリンク
耕雲院 副住職・河口智賢(かわぐち ちけん)
私は、山梨県都留市の曹洞宗 耕雲院で副住職を務めております、河口智賢(かわぐち ちけん)と申します。
大本山・永平寺での修行を経て、禅の実践とその心を現代に伝える活動を続けています。
映画『典座 –TENZO–』では主演を務め、カンヌ国際映画祭をはじめ世界各地で上映されました。
この作品を通じて、禅の精神が国や言葉を超えて人の心に届くことを実感しました。
耕雲院では、坐禅・写経・ヨガ・精進料理といった体験を通じ、
訪れる方がそれぞれの「今」と向き合う時間を私自身が直接ご案内しています。
禅は、特別な修行ではなく、誰にでも開かれた“生き方の実践”です。
その思いから、子ども食堂の運営やオンライン坐禅など、
日常の中に禅の精神を取り入れる取り組みも続けています。
禅は、呼吸とともに“いま”をそのまま受け取る姿勢です。
マインドフルネスが「気づきに戻るための方法」だとすれば、
禅は「戻ろうとする心を静かに手放すあり方」。
富士山麓・耕雲院では、
その静けさを、自分のペースでそっと味わっていただけます。
👉 初めての方はこちら
「禅体験とは|初心者にも安心。富士山麓・耕雲院で坐禅と写経を体験」
体験者の声
「心の奥に“静けさの余白”が生まれました。」
日常では味わえない深い静寂に包まれる時間でした。自分の呼吸が“帰る場所”になる感覚を体験できました。
「坐禅と法話が、自分の生活を見直すきっかけに。」
難しい言葉ではなく、日常の中の“禅”を優しく伝えてくださる方でした。家でも呼吸を意識するようになりました。
「ヨガと坐禅の組み合わせが心地よかった。」
身体をほぐしてから坐ると、自然に呼吸が深まりました。富士山の空気と、河口さんの穏やかな声が印象的でした。
よくある質問(FAQ)
Q. 初めてでも大丈夫ですか?
A. もちろんです。姿勢や呼吸法は最初に丁寧にご案内します。
Q. 服装に決まりはありますか?
A. 動きやすい服装であれば問題ありません。
Q. 写経や精進料理は全員参加ですか?
A. 写経は体験に含まれますが、精進料理はオプションです。ご希望の方のみご予約ください。
Q. 坐禅中に眠くなってしまったら?
A. 眠くなるのは自然なことです。眠気に気づくことも禅の一部です。焦らず、呼吸に意識を戻してみてください。
Q. 予約はどこからできますか?
A. こちらのお問い合わせフォームからご予約ください。
まとめ—「気づく」から「在る」へ
マインドフルネスは、今に気づくための方法。
禅は、今を生きるための姿勢。
どちらが正しい、間違っている、という比較ではなく、
その先にある共通点は—
静けさは「求めるもの」ではなく「気づくもの」。
静けさを得ようとしないとき、
私たちはすでに静けさの中心にいます。
富士山麓・耕雲院で、
その静けさに触れる時間を、そっと過ごしてみませんか。
