「答え」を探すほどではないときに

「どうしたらいいでしょうか」
寺にいると、そうした問いを受け取ることがあります。
けれど、話を聞いていると、その人が本当に求めているのは、
明確な答えそのものではないことが、少なくありません。
もう少し、立ち止まれる場所。
考え続けなくてもいい時間。
判断を急がなくても許される余白。
禅の世界では、
そうした“答えの手前”に身を置くことが、大切にされてきました。
禅問答もまた、
問題を解決するための問いではありません。
正解を導き出すためのやり取りでもない。
禅問答とは、禅の修行の中で用いられてきた、人が無意識に握りしめている「答えを出さなければならない」という構えに、そっと気づくための、問いのかたちです。
禅問答では、なぜ質問に答えてもらえないのか
「禅問答」と聞くと、
多くの人が「意味不明なはぐらかし」という印象を持つかもしれません。
問いを投げかけても、
- 沈黙が返ってくる
- 一見、的外れに思える言葉が返される
- ときには、問いそのものを否定される
どう考えても、親切なQ&Aには見えません。
けれど、その違和感こそが、
禅の核心に触れる入り口でもあります。
禅問答は、一般的な質疑応答とは、構造が根本から異なります。
その目的は、「正しい答えを導くこと」ではありません。
禅問答とは、
人が無意識のうちに行っている
「答えを出そう」「白黒つけよう」とする思考の癖
そのものに気づくためのやり取りなのです。
私たちはつい、
「あと100万円あれば余裕ができる」
「条件が整えば、落ち着ける」
そんな前提で物事を考えがちです。
けれど禅は、 「今ここにある100円で、何ができるか」
という視点の転換を促します。
問いに答えないことで、
私たちは、自分を縛っている価値観や、
「もっと、もっと」と求め続ける欲(求不得苦)に、否応なく向き合わされるのです。
禅問答が壊そうとしているもの

禅問答が一貫して拒んできたのは、私たちの脳が安心するための枠組みです。
- 論理的整合性
- 正解/不正解
- 分かった、という納得感
問いに答えてもらえないとき、
思考は行き場を失い、立ち止まらざるを得なくなります。
これは、混乱させるためではありません。
「思考が止まる地点」をつくるための技法です。
私たちは普段、新幹線の窓から流れる景色を眺めるような速さで、世界を見て、判断しています。
けれど、禅問答によって強制的にブレーキがかかり、
立ち止まったとき、初めて見えてくるものがあります。
それが、
自分自身の色眼鏡。
思い込み。
「当たり前」だと思い込んでいた前提です。
禅問答が強制的にブレーキをかけるのは、
私たちの思考の流れそのものです。
👉禅の教えの歴史については、こちらの記事で詳しく触れています。
禅問答と公案は、何が違うのか
─違いを説明しない説明
禅の文脈では、「公案(こうあん)」という言葉もよく語られます。
けれど、ここで用語の分類や歴史に深入りする必要はありません。
重要なのは、その構造です。
公案も、禅問答も、
「解かれる前提」では作られていません。
それは、どこかに正解が隠されていて、
それを探し当てる旅ではない。
むしろ、自分の中に元々備わっている
「仏性(仏の心)」に気づいていく過程に近いものです。
禅問答は、 問いを解くための道具ではありません。
問いを持っている「今の自分の状態」に
気づくための鏡なのです。
禅問答は「教える」ためのものではない
禅問答は、教育手法ではありません。
禅の師弟関係においても、師が答えを持ち、それを弟子に授ける構造ではありません。
問答は、その人の内側を映し出します。
- 早く答えが欲しいという焦り
- 正しくありたいという見栄
- 損をしたくないという執着
同じ問いであっても、向き合う人が変われば、作用は変わります。
同じ人であっても、時が変われば、受け取り方は変わります。
道元禅師が説いた「自己を習う」という言葉の通り、
禅問答を通して知るのは、教えではありません。
自分自身です。
現代人は、なぜ禅問答に惹かれるのか
現代社会では、あらゆる場面で「即答」が求められます。
これは、私たちの思考の速度や解釈の仕方が
「反応」優先になってしまっているからです。
👉この点については、禅とマインドフルネスの違いを丁寧に比較したこちらの記事でも言語化しています。
その結果、私たちの思考は休まる暇がありません。
禅問答は、その濁流に、静かにブレーキをかけます。
あえて「答えを出さない時間」を持つことで、
- 判断のスピードが落ちる
- 視野が戻ってくる
- 反応が変わる
禅問答は、答えを与える代わりに、答えを急がない心の余白を育ててくれるのです。
禅問答は「読むもの」ではなく「起きるもの」
禅問答は、
テキストとして理解した瞬間に、その力を失います。
本来、それは坐ること・沈黙すること・間が流れること—
そんな実践の中で起きてくるものです。
そうした具体的な実践の中で起きてきました。
言葉よりも先に、
姿勢があり、
呼吸があり、
空気があります。
「洗心」という言葉があるように、
自ら行動し、場に身を置くこと。
それが、問答が成立する前提となります。
👉禅が持つこの“場としての癒し”について、マインドフルネスとの根源的な癒しの関係を整理したこちらの記事があります。
耕雲院で大切にしている「問答が生まれる前の時間」
富士山麓、山梨県都留市にある耕雲院では、
古典的な禅問答を、そのまま再現しようとはしていません。
私たちが大切にしているのは、
問いを投げる前の、心の速度を落とす時間です。

坐禅や深い呼吸、そして静寂。
そうした時間の中で、
頭の中を巡り続けていた思考のぐるぐる(反芻思考)が、
少しずつ静まっていきます。
判断は、無理に止めなくても、
自然と遅くなっていく。
そうしたプロセスを経て、
参加者の中から 「本当に向き合うべき問い」が、
ふと立ち上がってくることがあります。
問答が生まれることもあります。
何も起きず、ただ静寂だけが残ることもあります。
禅の視点では、
そのどちらもが、正しい時間です。
耕雲院で過ごす時間について(参考)
耕雲院での体験は、
おおよそ 3〜4時間ほどの、
ゆったりとした時間の流れの中で行われます。
内容は、
ヨガ・坐禅・写経を中心に構成されており、
必要に応じて、精進料理を組み合わせることもできます。
費用の目安は 10,000〜15,000円。
場所は、山梨県都留市。
富士山や河口湖周辺から、車で約40分ほどの距離です。
観光地を巡るための時間というよりも、
立ち止まるための時間として、
この場所を訪れる方が多くいらっしゃいます。
👉耕雲院の禅リトリートの体験は、こちらのご予約ページよりお申込みください。
この場を預かる者として—副住職・河口智賢より

この富士山麓の寺で日々を過ごしているのが、耕雲院副住職の 河口智賢 です。
大本山 永平寺にて修行を重ね、
曹洞宗の教えを、長年の実践を通して受け継いできました。
映画典座 –TENZO–では、修行僧・典座の姿を通して、
言葉にしきれない「禅の営み」を映像として伝える機会にも恵まれました。
この作品は、カンヌ国際映画祭をはじめ、世界各地で上映されています。
ただ、ここ耕雲院で大切にしているのは、
特別な肩書きや経歴よりも、
目の前の人と、同じ時間を過ごすことです。
坐禅や写経、ヨガ、精進料理。
それらを通して、訪れる方一人ひとりと向き合いながら、
私自身が直接、この場をご案内しています。
禅は、限られた人のための「難しい修行」ではありません。
日々の暮らしの中で、
立ち止まり、呼吸を感じ、
自分の状態に気づいていくための、生き方そのものです。
その思いから、
子ども食堂の運営やオンライン坐禅など、
日常の中に禅の精神を生かす取り組みも続けてきました。
世界各地から訪れる方々を、
この静かな富士山麓の寺でお迎えできること。
それが、何よりの喜びです。
禅の坐禅と、シンプルな実践を通して、
深遠でありながら、誰にでも開かれた体験を、
ここで静かに分かち合えたらと思っています。
体験者の声
「心の奥に“静けさの余白”が生まれました。」
日常では味わえない深い静寂に包まれる時間でした。自分の呼吸が“帰る場所”になる感覚を体験できました。「坐禅と法話が、自分の生活を見直すきっかけに。」
難しい言葉ではなく、日常の中の“禅”を優しく伝えてくださる方でした。家でも呼吸を意識するようになりました。「ヨガと坐禅の組み合わせが心地よかった。」
身体をほぐしてから坐ると、自然に呼吸が深まりました。富士山の空気と、河口さんの穏やかな声が印象的でした。
よくある質問(FAQ)
Q. 初めてでも大丈夫ですか?
A. もちろんです。姿勢や呼吸法は最初に丁寧にご案内します。
Q. 服装に決まりはありますか?
A. 動きやすい服装であれば問題ありません。
Q. 写経や精進料理は全員参加ですか?
A. 写経は体験に含まれますが、精進料理はオプションです。ご希望の方のみご予約ください。
Q. 坐禅中に眠くなってしまったら?
A. 眠くなるのは自然なことです。眠気に気づくことも禅の一部です。焦らず、呼吸に意識を戻してみてください。
Q. 予約はどこからできますか?
A. こちらのお問い合わせフォームからご予約ください。
答えを探す前に、場に身を置くという選択

禅問答は、知識として理解するものではありません。
それは、答えが出ない状態に耐えられる心を育てる営みです。
もしこの記事を読んでいて、
呼吸が少しゆっくりになったり、
肩の力が抜けたりしたなら、
それはすでに、あなたの中で
禅問答が「起きかけている」状態かもしれません。
答えという、消費されていく情報を探すのをやめ、
言葉が前に出すぎない時間に身を浸してみたい。
そう願う人のために、
富士山麓の静寂という選択肢があります。
禅問答とは、
喉が渇いた人に水を差し出すことではありません。
なぜ、これほどまでに喉が渇いているのか。
その問いを、静かな水辺で、自分の顔を映しながら、じっと見つめる時間そのものなのです。
