禅は「説明しにくい」という特徴を持つ

「禅とは何ですか」
私は日々、坐禅会や対話の場で、この問いを受け取ります。
多くの場合、禅は「心を整える方法」や「ストレスを和らげる実践」として理解されがちです。坐禅をして、呼吸を整え、気持ちを落ち着かせる—そのようなイメージを持たれている方も多いでしょう。
けれど私は、禅とは本来、言葉で説明することに向かない思想だと考えています。
禅には、「わかろうとするほど遠ざかる」という、少し厄介な性質があります。知識として理解しようとすればするほど、かえってその本質から離れてしまう。禅は、何かを“教え”として受け取るものではなく、その人のあり方として立ち現れるものだからです。
私は、富士山麓・山梨県都留市にある禅寺「耕雲院」で、この問いと日々向き合いながら過ごしています。ここで重ねてきた修行や実践の中で、禅は「説明するもの」ではなく、「構えとして保たれてきたもの」だと、強く感じるようになりました。
1|「禅とは」という言葉が立ち上がる前
「禅とは?」という問いが心に浮かぶとき、そこには、はっきりとした悩みや問題意識があるとは限りません。
むしろ多くの場合、それは
言葉にならない違和感
立ち止まりたいという感覚
何かがズレている気がする、という気配
に近いものではないでしょうか。
日々の生活は忙しく、情報は絶え間なく流れ込み、私たちは常に何かを判断し、選び続けています。その中でふと、「自分は今、どこに立っているのだろう」と足が止まる瞬間が訪れることがあります。
何かを変えたいわけではない。
けれど、このままで良いとも言い切れない。
その“問いになる前の状態”に、禅という言葉は静かに触れてきます。禅は、答えを提示してくれる思想ではありません。だからこそ、まだ輪郭を持たない感覚を、そのまま抱えたままでも近づくことができるのです。
2|禅とは「答えを出すための思想」ではない

私たちは、問いを持てば、答えを探します。
努力すれば、結果が得られる。
続ければ、変化が起こる。
現代社会は、そのような「因果の分かりやすさ」を前提に動いています。
しかし、禅はその前提に立ちません。
禅は、結論や解決策、方向性を提示する思想ではありません。問題を整理し、効率よく処理するための枠組みでもない。むしろ禅は、問いを処理しないという特徴を持っています。
坐禅もまた、悟りを得るための手段ではありません。ただ坐る。その姿そのものが修行であり、完成形です。「これを続ければ、こうなる」という約束は、最初から用意されていません。
その意味で、禅は非常に“役に立たない”思想だと言えるかもしれません。けれど、答えを急がないことでしか見えてこないものが、確かにあります。
今この瞬間に向き合うこと。
目の前の一つの行いに、余分な意味を乗せずに没頭すること。
禅は、結果ではなく、その場に立つ姿勢そのものを問う思想なのです。
👉坐禅を「修行」としてどう捉えてきたのかについては、永平寺での修行経験をもとに、こちらの記事で詳しく綴っています。
3|禅が拒んできたもの
禅は、長い時間をかけて、いくつものものを拒んできました。
- 解釈されきること
- 理解されたと断定されること
- 正解として使われること
- 目的達成の手段になること
人は何かを理解したと思った瞬間、その対象に「ラベル」を貼ります。「これはこういうものだ」と決めた途端、他の見え方を閉ざしてしまう。
禅は、その状態を最も警戒してきました。
知識や理屈で満たされた心は、新しいものを受け取る余白を失います。だから禅は、まず「空にする」ことを大切にします。自分の物差しを一度外し、ありのままに触れること。
禅が否定してきたのは、人ではありません。
固定された理解そのものです。
👉禅とマインドフルネスの違いについては、こちらの記事で整理しています。
4|それでも「禅」という言葉が残ってきた理由
禅は、思想として完成しませんでした。
定義されず、結論を持たず、正解を提示しないまま、それでも禅という言葉は、時代を超えて残ってきました。
それは、禅が「思想」ではなく、構えとして受け継がれてきたからだと私は考えています。
時代が変わり、価値観が変わり、社会の形が変わっても、人が迷い、立ち止まり、自分のあり方を問い直す場面はなくなりません。そのたびに、禅は「こうしなさい」とは言わず、「どう立つか」を問い続けてきました。
定義できないからこそ、禅は更新され続けてきた。
意味を与えられなかったからこそ、今も生きている。
その柔らかさこそが、禅が今日まで残ってきた理由なのです。
👉禅の思想が、言葉ではなく空間や佇まいとして表れてきた背景については、
「禅宗のお寺とは—禅の思想をかたちにした建築文化」でで触れています。
5|禅とは何か(最小定義)
すべてを削ぎ落としたとき、私は禅を次のように捉えています。
禅とは、「答えを急がないという立場」である。
禅は、何かを得るためのものではありません。
何者かになるための道でもありません。
状況に対して、即座に反応の仕方を決めない。
判断を保留し、立ち止まり、今ここにとどまる。
私たちは、縁の中で生きています。自分一人で完結する答えなど、本来どこにもありません。だから禅は、外に答えを探すのではなく、自分の内側を照らし返す姿勢を大切にしてきました。
答えを出さないことは、逃げではありません。
それは、現実に対して誠実であろうとする態度です。
👉禅の姿勢が、日常の思考や選択の中でどのように息づいていくのかについては、こちらの記事を参考にしてください。
6|禅に「触れる」という次の段階へ
禅は、理解されるためのものではありません。
ここまでお読みいただいたように、禅は答えを与えず、
定義されることすら拒んできた思想です。
それでも禅が今日まで残ってきたのは、
言葉の外側にある「構え」が、
人の生き方の中で受け継がれてきたからだと私は考えています。
その構えは、文章を読むだけではなく、
実際の「場」や「行い」の中で、
よりはっきりと立ち現れてくることがあります。
7|耕雲院で行っている禅のプログラムについて

私がその構えを日々守り、実践している場所が、
富士山麓・山梨県都留市にある禅寺「耕雲院」です。
耕雲院では、坐禅や写経、ヨガなどを通じて、
日常の延長線上で自分自身と向き合う時間を設けています。
これらは、何かを得るためのプログラムではなく、
「今ここに立つ」という姿勢に静かに戻るための場です。
—耕雲院プログラム—
- 所要時間: 約3〜4時間
- 内容: ヨガ・坐禅・写経 ※精進料理はオプション
- 費用: 10,000〜15,000円(税込)
- 場所: 山梨県都留市(富士山・河口湖から車で約40分)
👉 詳細・予約はこちら → 耕雲院公式サイトリンク
8|耕雲院 副住職・河口智賢(かわぐち ちけん)

私は、山梨県都留市にある曹洞宗 耕雲院で副住職を務めております。
若い頃には、大本山・永平寺にて修行の時を過ごしました。
永平寺での修行は、何かの技術を身につけるための時間ではありませんでした。
坐禅や作法、精進料理といった日々の営みを通して学んだのは、
「考える前に、そのまま受け取る」という禅の姿勢です。
修行の中で私は、自分の中に絶えず湧き上がる思考の“ざわめき”を、
無理に抑え込むのではなく、静かに手放していくことを繰り返してきました。
そして、評価や意味づけをする前に、
ただ起きていることを、そのまま観る力を養う時間でもあったと感じています。
その体験は、現在私が行っている坐禅指導の中心にあります。
坐禅とは、何か特別な境地に到達するためのものではなく、
今この瞬間に起きている感覚や呼吸、心の動きを、
判断せずに見つめ直すための時間なのだと思っています。
また、映画『典座 –TENZO–』では主演を務めさせていただき、
作品は海外でも上映されました。
文化や言語が異なっても、
「静かに座る」という体験は、誰の心にも届く。
そのことを、現地での反応を通じて強く実感しました。
その瞬間、私はあらためて、
禅の考え方が持つ普遍性と、
人が本来備えている静けさの存在を深く理解したように思います。
この記事は、そうした修行と実践の中で私自身が感じてきた
禅の「構え」を、できる限りそのまま言葉にしました。
9|体験者の声
「心の奥に“静けさの余白”が生まれました。」
日常では味わえない深い静寂に包まれる時間でした。自分の呼吸が“帰る場所”になる感覚を体験できました。「坐禅と法話が、自分の生活を見直すきっかけに。」
難しい言葉ではなく、日常の中の“禅”を優しく伝えてくださる方でした。家でも呼吸を意識するようになりました。「ヨガと坐禅の組み合わせが心地よかった。」
身体をほぐしてから坐ると、自然に呼吸が深まりました。富士山の空気と、河口さんの穏やかな声が印象的でした。
10|よくある質問(FAQ)
初めてでも大丈夫ですか?
もちろんです。姿勢や呼吸法は最初に丁寧にご案内します。
服装に決まりはありますか?
動きやすい服装であれば問題ありません。
写経や精進料理は全員参加ですか?
写経は体験に含まれますが、精進料理はオプションです。ご希望の方のみご予約ください。
坐禅中に眠くなってしまったら?
眠くなるのは自然なことです。眠気に気づくことも禅の一部です。焦らず、呼吸に意識を戻してみてください。
予約はどこからできますか?
こちらのお問い合わせフォームからご予約ください。
まとめ|このページの役割について
この記事は、禅を理解させるためのものではありません。
禅という言葉が、なぜ定義されずに残ってきたのか。
その使われ方と立ち位置を、整理するためのものです。
私は、耕雲院の住職として、この「答えを急がない構え」を、日々の暮らしと実践の中で守り続けています。禅は、特別な場だけにあるものではなく、日常の一つひとつの行いの中に現れます。
もし、言葉ではなく、その構えに触れてみたいと感じたときには、富士山麓・山梨県都留市の耕雲院という場所が、ひとつの「場」になるかもしれません。
禅は、理解するものではなく、
立ち現れてくるものです。
その瞬間をご一緒できるご縁があれば、幸いです。
