マインドフルネスと禅の違いとは?|現代のストレス社会で求められる“本質”を読み解く

マインドフルネスを試したものの、「一時的な効果しかない」「根本が変わらない」と感じていませんか?
現代社会で注目されるマインドフルネスは、その手軽さと即効性から多くの人に受け入れられています。
しかし、「心を落ち着かせても、結局また同じことで悩んでしまう」と感じ、その限界に直面する方も少なくありません。
本記事は、マインドフルネスの源流である「禅」の視点から、マインドフルネスでは届かない心の根幹に触れ、「自我(エゴ)の囚われ」から脱却し、「自己(真の自分)」を育てる方法を解説します。
なぜ「マインドフルネス経験者」は禅に辿り着くのか?
マインドフルネスの功績と「限界」
マインドフルネスは、手軽さ、科学的根拠、短期的なストレス軽減という素晴らしい功績をもたらしました。
しかし、禅僧である私の視点から見ると、その限界は「自我(エゴ)との関わり方」にあります。
マインドフルネスは、自分の思うようにしたい「自我」に振り回されないようにすることを目指します。
しかし、その「自我」を根本から空っぽにする(ほぐす)ことの難しさが残ります。
情報が有り余る時代に、目の前の情報や感情を「評価しない」こと自体が困難な修行となり、
心の深い問題(執着や囚われ)への不介入が限界となるのです。
心の根治を目指す「禅」の本質
禅の目的は、一過性のリラックスではありません。それは、「自己の本来の姿を体得すること」です。
私たちが日々抱える煩悩や妄想は、積もる雪のように真の自己を覆い隠します。
禅とは、その雪を削ぎ落とすことで、自分の真実の姿(自己)を見出す行為です。
その中心にあるのが「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすらに坐る行いです。
坐禅は何かを達成するための手段ではありません。坐禅をしている姿そのものが「仏の姿」であり、悟りの姿。
これこそが、私たちを穏やかな幸せへと導く「安楽の法門」なのです。
【実践論】目的の深度に見る「効果の質」の違い
「雑草を刈る」と「土壌を変える」
これは、マインドフルネスと禅の違いを最もよく表す比喩だと私は考えています。
マインドフルネスは、一時的に煩悩という雑草を刈り、気持ちを落ち着かせることに繋がります。しかし、土壌が同じなら、雑草はまた生えてきます。
対して禅は、引き算の思想に基づき、余分なものを剥いで行くことで、煩悩が生えてくる土壌(自己の囚われ/エゴ)そのものを変えることに重きを置きます。これは、坐禅という「練磨」を通じて、自分の本質を磨き上げてアップデートしていく行為なのです。
実践の質の比較:形式と作法がもたらす究極の集中力
坐禅では、調身(姿勢)・調息(呼吸)・調心(心)の三つの基本を徹底的に調和させます。
この「形式」に対する徹底的なこだわりが、禅の持つ深い力の源泉です。
威儀即仏法(いいぎそくぶっぽう)という言葉が示す通り、
「形を整える」こと自体が仏の教えであり、心と体が一致することで、心を整えることにつながります。
これは自己流に陥らず、一つの行いに無心に取り組む「一行三昧(いちぎょうざんまい)」の実践に他なりません。
一時的なリラックスを超えた「不動の心」の獲得

心を落ち着かせると、日常では気付かないような鳥の鳴き声や蓮の花の開花など、日々変わっていく瞬間に気付きます。
これが禅がもたらす「変化」です。
苦しみの原因は自我(エゴ)に凝り固まっていることですが、坐禅を通じて「自我」を俯瞰して見つめる「自己」を育てることで、
社会の中でどうあるべきかという正しい姿を保ち、囚われから解放されていきます。
この自己を見つめ直す行為は回向返照(えこうへんしょう)とも呼ばれ、長期的な効果として「不動の心」を獲得するのです。
富士山麓で得られる「動」と「静」が織りなす変容の体験
山梨県都留市にある曹洞宗 耕雲院は、富士山麓の自然と調和する静かな寺院です。
この静謐な環境の中で、私たちはヨガと禅をひと続きの呼吸の中で行います。
- 動の禅(ヨガ): 静かな本堂で、身体と呼吸をひらくことから始めます。これは、ポーズを深めるためではなく、「自分に戻るためのヨガ」です。
- 静の禅: そのまま坐禅・写経、そして必要に応じて精進料理の時間へ移ることで、体験は「動」から「静」へ自然に流れていきます。外側から整えるヨガと、内側から静める禅。この流れは、初めての方にもやさしく開かれています。
👉 坐禅の流れや心構えを知りたい方は、 「体験 座禅|初めての人が知っておきたいガイド」も参考になります。
富士山麓で禅を体験する — 耕雲院プログラム
- 所要時間:約3〜4時間
- 内容:ヨガ・坐禅・写経 ※精進料理はオプション
- 費用:10,000〜15,000円
- 場所:山梨県都留市(富士山・河口湖から車で約40分)
👉 詳細・予約はこちら → 耕雲院公式サイトリンク
耕雲院 副住職・河口智賢(かわぐち ちけん)

私、河口智賢(かわぐち ちけん)は、山梨県都留市にある曹洞宗 耕雲院で副住職を務めております。
大本山・永平寺での厳しい修行を経て、私は、禅の「生き方の実践」を現代の心の課題を抱える方々へ伝える活動を続けています。
映画『典座 –TENZO–』での主演経験から、禅の精神が国や言葉を超えて人の心に届くことを強く実感しましたが、
それはまさに、誰もが心の根源で「真の自己」を求めている証だと感じています。
マインドフルネスの次へ:心を根治する実践
私は、禅は、難しい修行ではなく、誰にでも開かれた“生き方の実践”だと考えています。
しかし、心を一時的に整えるマインドフルネスを経験された方は、次に「自我(エゴ)の囚われ」をどうにかしたいという、より深い問いを抱えています。
その問いに応えるため、耕雲院では、富士山麓の自然と調和する静かな空間で、「マインドフルネスの限界を超える実践」をご案内しています。
禅は、難しい修行ではありません。 ヨガもまた、特別な技術や柔軟性が必要なものではありません。
必要なのは、ただこれだけです。
- 呼吸に戻る。
- 身体と心をひらく。(動の禅)
- そして、その先に待つ坐禅で、自我を空っぽにする。(静の禅)
ここでは、「ポーズを深めるためではなく、自分に戻るためのヨガ」を入口とし、静かな本堂で身体と呼吸をひらきます。
その体験は、坐禅・写経・精進料理へとひと続きの呼吸の中で自然に流れ、
「動」から「静」へ、あなたの心を根治する深い変容へと無理なくつながっていきます。
訪れる方が、それぞれの「今」と深く向き合い、持続する平穏(ウェルビーイング)を見出す時間を、私自身が直接丁寧にご案内いたします。
体験者の声
「心の奥に“静けさの余白”が生まれました。」
日常では味わえない深い静寂に包まれる時間でした。自分の呼吸が“帰る場所”になる感覚を体験できました。「坐禅と法話が、自分の生活を見直すきっかけに。」
難しい言葉ではなく、日常の中の“禅”を優しく伝えてくださる方でした。家でも呼吸を意識するようになりました。「ヨガと坐禅の組み合わせが心地よかった。」
身体をほぐしてから坐ると、自然に呼吸が深まりました。富士山の空気と、河口さんの穏やかな声が印象的でした。
よくある質問(FAQ)
Q. 初めてでも大丈夫ですか?
A. もちろんです。姿勢や呼吸法は最初に丁寧にご案内します。
Q. 服装に決まりはありますか?
A. 動きやすい服装であれば問題ありません。
Q. 写経や精進料理は全員参加ですか?
A. 写経は体験に含まれますが、精進料理はオプションです。ご希望の方のみご予約ください。
Q. 坐禅中に眠くなってしまったら?
A. 眠くなるのは自然なことです。眠気に気づくことも禅の一部です。焦らず、呼吸に意識を戻してみてください。
Q. マインドフルネスの経験は、禅の実践に役立ちますか?
A. もちろんです。マインドフルネスで養った「今に気づく力」は、禅の修行に入るための素晴らしい土台になります。私と共に、その気づきを「自我を超える力」へと昇華させましょう。
Q. 予約はどこからできますか?
A. こちらのお問い合わせフォームからご予約ください。
「今」こそ禅を始めるべき理由

時間は私たちを待ってはくれません(時人を待たず)。
マインドフルネスを試しても埋まらなかった心の空白。
もしあなたが、心の奥底で「本物」の変容を求めているのなら、「いつかやろう」と先延ばしにせず、
「今」行動を起こすことが大切です。
「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか?」
という問いかけを胸に、マインドフルネスで得た気づきを土台として、禅の実践を通じ、
自分自身がやるべきことを見定めることが、持続する幸せ(ウェルビーイング)に繋がるのです。
私にとって禅とは、あなたが今使っている「眼鏡」(自我や囚われ)を、
ただ拭き取って一時的に視界を良くする(マインドフルネス)だけでなく、その眼鏡そのものを外し、
「遍界不曾蔵」(世界は何も隠していない)という真実の光の中に立ち、
磨き上げた「自己」という目で世界を見るためのプロセスです。
富士山麓の静かな道場、耕雲院で私と共に、真の自己を見つめ直し、心の根治へと踏み出しましょう。あなたをお待ちしております。
👉 リトリートという概念について詳しく知りたい方は 「お寺リトリートとは—静けさに“泊まる”という選択」をご覧ください。
