1|「坐る」という選択はどこから始まるのか
迷い・転機・空白—人が坐禅を探し始める瞬間
現代社会は、情報の洪水と予定に追われ、「自分で選んでいる」という感覚よりも「選ばされている」感覚に陥りがちです。
その中でふと、こんな問いが浮かぶ瞬間があります。
「自分は今、どこに立っているのだろう?」
「この先、どこへ向かえばいいのだろう?」
私自身の修行経験でも、人が坐禅を探し始めるのは“人生の空白”に直面したときでした。
仏教では、思い通りにならない現実を「四苦八苦」といいます。
人生が思い通りにならないからこそ、私たちは立ち止まり、心の奥から「本当の自分」を探し始めます。
坐禅とは、その空白の中で「自分の苦しみに気づく」行為です。
心を見つめ直すことから、ようやく再出発が始まります。
休息ではなく“立て直し”としての禅
「忙しい」とは“心を亡くす”と書きます。
外側のノイズに心が奪われ、自分の状態を振り返る余裕がなくなっていく—。
私自身、体調を崩し、心身ともに限界を迎えた時期がありました。
そのとき、禅の修行が私を元に戻してくれました。
坐禅の目的は、苦しい修行をして悟りを得ることではありません。
身と心を安楽にし、自然の移り変わり(諸行無常)に気づき、
「今ここにある自分」を静かに整える時間です。
立ち止まって坐ることで、見えなかった景色がはっきりと見えてくるのです。
心と体を安楽にし、「今ここ」に戻る静けさに気づく時間です。
👉こうした“静けさの感覚”は『マインドフルネスは、寺にある—静けさに帰るということ』で詳しく解説しています。
他の瞑想ではなく“禅宗の坐禅”を選ぶ人の心理
曹洞宗の坐禅は「悟りのための手段」ではありません。
坐っている姿そのものが、すでに“仏の姿”であると説きます。
坐禅は、世の中の変化の中で固まってしまった心のバイアスを一度溶かし、
心身をニュートラルな状態へ戻す修行です。
また禅は、「孤独ではなく御縁の中で生かされている」という縁起の真理に気づかせてくれます。
禅宗の坐禅を選ぶ人は、
「リラックス」や「集中力アップ」の先にある、
“自分の存在の本質” に触れたい人なのです。
2|坐禅が教えるのは「沈黙の知性」
考えることと、気づくことの違い
現代は、情報を得ることが“理解した気分”をつくりがちです。
しかし、知識の積み重ねだけでは、本当の知恵には至りません。
坐禅は、雨音の響き、鳥の声、冷たい空気の温度など、
普段は流れていく時間の気配に深く気づかせてくれます。
心が静まると、心という水面に「月」が映ります。
夜空を見上げなくても—
自分を見つめることで心の中の月に気づく。
これが禅のいう「沈黙の知性」です。
静寂の中で気配に気づくという体験は、禅寺の空間性とも深く結びついています。
👉詳しくは『禅宗のお寺とは—禅の思想をかたちにした建築文化』で解説しています。
知識が増えるほど「余白」が失われる現代
タスク、予定、通知。
現代は“詰め込みすぎる”ことで心の余白がなくなっていきます。
余白がないと、違和感や変化を“感じるだけ”で、
対処する余裕をなくしてしまいます。
坐禅は、一度心の器を空に戻す行為です。
自然に従って生きるという本質に気づくと、
「これで良いんだ」という余白が生まれます。
沈黙が洞察を生む理由—脳科学と禅の一致点
般若心経の「空」は「からっぽ」ではありません。
ティク・ナット・ハン師は「独立した実体がないこと」と解釈しています。
目があるだけでは物は見えません。
意識が入り、はじめて“見る”という行為が成立します。
坐禅は、
「すべては縁起でつながり、独立したものはない」
という世界の仕組みに気づく修行です。
沈黙の中で自己と向き合うことで、
苦しみの根源、自分の感情のクセ、幸せの源泉。
それらを察知する“彗眼(すいがん)”が戻ってきます。
3|禅宗の坐禅が“シンプルなのに深い”理由
儀式化されない修行—なぜ道具も技法も増えないのか
道元禅師は中国から「手ぶらで帰国した」と伝えられています。
「空手還郷・眼横鼻直」。
悟ったのは外側の知識ではなく、
“今ここにある自分の姿そのもの” だったという意味です。
だから禅宗は、複雑な技法や多くの道具を必要としません。
坐禅はどこにいても実践でき、掃除や労働(作務)も同じ“禅”です。
静の禅=坐禅
動の禅=作務
日常のすべてが修行なのです。
作務もまた“動く禅”であり、坐禅と同じ修行です。
👉修行としての坐禅については『禅寺 座禅|永平寺修行僧が語る、“修行としての坐禅”の意味』が参考になります。
「結果を求めない修行」がなぜ人を変えるのか
禅には「修証一等」という言葉があります。
修行と悟りは一つに等しく、終わりも完成もありません。
坐ろうとした瞬間がすでに悟りの姿。
その行為自体に価値があるのです。
大切なのは
「未来のために今を犠牲にしないこと」。
今この瞬間(而今)を丁寧に生きることが、
未来を変える唯一の道です。
坐禅は上達するのか?という素朴な疑問
私自身、20年以上坐禅を続けていますが、
「同じ感覚だったこと」は一度もありません。
季節、体調、気温、心の状態。
すべてが変わるため、坐禅も毎回違います。
重要なのは、
その“違い”に気づける自分へ変化していくことです。
続けることで、心身の調和が整っていきます。
4|臨済宗・曹洞宗の違いは「問い方の違い」だった
方法ではなく「心の扱い方」が異なる
禅宗は大きく臨済宗と曹洞宗に分かれます。
根本の教えは同じですが、心の扱い方に特徴があります。
曹洞宗では、
「他人の修行は代われない」(他是吾非)
「柔軟心(心を水のように柔らかく)」
という教えを重視します。
凝り固まった価値観の角をなくし、
広い物差しで世界を見られるようになることが修行です。
問い続ける臨済宗/問いすら手放す曹洞宗
臨済宗は“公案”という問いを使い、禅的思索を深めます。
一方、曹洞宗は
「ただ坐る」=只管打坐
「一度手放す」=放下著
の姿勢を大切にします。
抱えているものを一度全部降ろし、
本当に必要なものだけを拾い直す—。
これが曹洞宗の坐禅の核心です。
どちらが誰に合うのか?選び方の視点
- 心を柔らかくしたい
- 自分の価値観にとらわれて疲れている
- ニュートラルな状態に戻したい
そんな人には、曹洞宗の坐禅が合うでしょう。
心身一如の教えに沿い、
心と体を同時に整える道がここにあります。
5|日常に戻っても坐禅が続く人/続かない人の差
目的を持とうとする人は挫折する
坐禅を“手段”として捉えると、
「やらなければならない」ものになります。
これは続きません。
目的が強くなるほど、
「思い通りにならない自分」に苦しむからです。
続く人の特徴:結果を見ず“場”を作る人
坐禅が続く人は、
結果ではなく「続けること」に価値を見いだします。
釈迦の弟子・周利槃特が
「塵を払いなさい、垢を除きなさい」
という言葉を胸に、
ただ掃除を続けたように—。
続けているうちに「今の自分」が見え、
向かうべき方向が自然と見えてきます。
やめてしまう人の傾向:「やり方」への執着
- 正しくできているか:
- これで合っているのか:
- 効果があるのか:
こうした“やり方の正解”へのこだわりは、
心を固くし、苦しくさせます。
坐禅は、形の正解を求めるものではなく、
今の自分を受け入れ、調える行為です。
続けたいと思う方へは、坐禅の基本的な流れをまとめた
👉体験 坐禅|初心者でもできるやり方と流れ【富士山麓・耕雲院】もおすすめです。
6|富士山麓で深める禅の実践——耕雲院の禅体験プログラム

坐禅を続けていくと、ある瞬間に
「もっと深く向き合ってみたい」
という気持ちが自然に生まれます。
禅は、知識から体験へとステップが移る修行です。
実際に体を動かし、坐り、書き、呼吸とともに“今ここ”を味わうことで、
頭だけでは決して届かなかった感覚がそっと戻ってきます。
山梨県都留市・富士山麓にある耕雲院では、
坐禅・写経・ヨガなどをふくむ禅体験プログラムを行っています。
静けさの中で過ごす数時間は、思考では届かなかった感覚をそっと思い出す時間になります。
もっと深く実践したいと思ったとき、禅は知識から体験へとステップが移ります。
ヨガで身体をゆるめ、坐禅で静けさに戻る流れは相性が非常に良いものです。
👉 詳しくは『ヨガと禅—身体と心が出会う、静けさの体験』でも解説しています。
—耕雲院プログラム—
- 所要時間:約3〜4時間
- 内容:ヨガ・坐禅・写経 ※精進料理はオプション
- 費用:10,000〜15,000円
- 場所:山梨県都留市(富士山・河口湖から車で約40分)
👉 詳細・予約はこちら → 耕雲院公式サイトリンク
7|耕雲院 副住職・河口智賢(かわぐち ちけん)

私は山梨県都留市にある曹洞宗 耕雲院で副住職を務めております。
若い頃に 大本山・永平寺で修行し、坐禅や作法、精進料理を通じて
「考える前に、そのまま受け取る」という禅の姿勢を学びました。
永平寺での修行は、技術を習得する時間ではなく、
自分の思考の“ざわめき”を静かに手放し、
ただ起きていることをそのまま観る力を磨く時間でした。
その体験は、今の私の坐禅指導の中心になっています。
映画『典座 –TENZO–』では主演を務め、作品は海外でも上映されました。
文化や言語が違っても、“静かに座る”という体験は、誰の心にも届く。
その瞬間に私は、禅の考え方が持つ普遍性と、人が本来持っている静けさを深く理解しました。
耕雲院では、坐禅・写経・ヨガ・精進料理といった実践を通じて、
訪れる方がそれぞれの「今」と向き合う時間を私自身が直接ご案内しています。
禅は、特別な修行や技巧ではありません。
思考を押しつけるのでもなく、
“いま起きていることをそのまま観る”という生き方の実践です。
だからこそ誰にでも開かれており、
子ども食堂の運営やオンライン坐禅、
企業研修や地域での学びの場づくりなど、
日常に禅の考え方を取り入れる活動も続けています。
静かに座り、呼吸に戻る。
その小さな行いが、思考に振り回されない心を育てていきます。
耕雲院で、あなたの「今」と静かに向き合う時間をご一緒できれば幸いです。
8|体験者の声
「心の奥に“静けさの余白”が生まれました。」
日常では味わえない深い静寂に包まれる時間でした。自分の呼吸が“帰る場所”になる感覚を体験できました。「坐禅と法話が、自分の生活を見直すきっかけに。」
難しい言葉ではなく、日常の中の“禅”を優しく伝えてくださる方でした。家でも呼吸を意識するようになりました。「ヨガと坐禅の組み合わせが心地よかった。」
身体をほぐしてから坐ると、自然に呼吸が深まりました。富士山の空気と、河口さんの穏やかな声が印象的でした。
9|よくある質問(FAQ)
Q. 初めてでも大丈夫ですか?
A. もちろんです。姿勢や呼吸法は最初に丁寧にご案内します。
Q. 服装に決まりはありますか?
A. 動きやすい服装であれば問題ありません。
Q. 写経や精進料理は全員参加ですか?
A. 写経は体験に含まれますが、精進料理はオプションです。ご希望の方のみご予約ください。
Q. 坐禅中に眠くなってしまったら?
A. 眠くなるのは自然なことです。眠気に気づくことも禅の一部です。焦らず、呼吸に意識を戻してみてください。
Q. 予約はどこからできますか?
A. こちらのお問い合わせフォームからご予約ください。
まとめ|「坐る」は行動ではなく姿勢である
坐禅は、成功のための技術でも、
自分を変えるための努力でもありません。
「いま、ここに戻る」—そのための静かな行為です。
日々の思考や情報の波に飲まれていると、
本来の自分の声はかき消されてしまいます。
だからこそ、余計なものを手放し、
ただ“今の自分”をそのまま受け取る時間が必要になります。
禅宗の坐禅が世界で選ばれているのは、
誰の内側にもある静けさへ、そっと戻してくれるからです。
静かに坐り、呼吸に戻る。
その小さな積み重ねが、
思考に振り回されない心を育てていきます。
耕雲院は、静けさに包まれた環境で、坐禅や写経を通じて
自分の内側にある静かな場所へ—
そっと帰る体験ができます。
