ヨガと禅—異なる道、同じ静けさへ
ヨガは、身体から整えていく道。
禅(坐禅)は、心から澄ましていく道。
入り口は違っても、向かう先はひとつです。
それは 「余計なものを手放し、本来の自分に戻ること。」
禅には「引き算の哲学」があります。
あれこれ足すのではなく、
いま持っている緊張・不安・期待をそっと手放していく。
手放した分だけ、心に静けさがあらわれる。
ヨガで身体の余分な力が抜けると、
呼吸が深くなり、内側にスペースが生まれる。
禅で思考の波が静まると、
心が透明になり、自分の中心に触れられる。
ヨガ=動く瞑想
禅=坐る瞑想
ふたつは、対立するものでも、どちらが正しいと競うものでもありません。
ただ、それぞれのアプローチで 同じ静けさへと導く道 です。
禅そのものの意味や “禅体験の全体像” を先に知りたい方は
👉「禅体験とは|初心者にも安心」をご覧ください。
呼吸がつなぐ—動と静のあいだ
ヨガにも禅にも共通する中心は、呼吸です。
呼吸は、もっとも身近で、もっとも確かな「今」の証。
禅にはこうあります。
調身・調息・調心(ちょうしん・ちょうそく・ちょうしん)
—身体を整え、呼吸が整い、心が整う。
心を直接変えようとしてもうまくいかない。
けれど、身体 → 呼吸 → 心 の順に整えると、自然に静かさが生まれます。
ヨガでは、動きながら呼吸のリズムを取り戻します。
呼吸が深くなると、身体の内側にスペースが生まれる。
禅では、動きを止めて呼吸に寄り添います。
呼吸が静まると、心の内側に余白が生まれる。
動きの中で「今」を感じるヨガ。
静けさの中で「今」に戻る禅。
どちらも、呼吸が“意識を今ここに戻す入口”になっています。
たとえ思考が忙しくても、
呼吸に戻るたび、あなたは「今」に帰ってきます。
*坐禅の具体的な流れを知りたい方は
👉 体験 坐禅|初心者でもできるやり方と流れ をご覧ください。
哲学としての共鳴—ヨガスートラと禅の言葉
古代インドのヨガと、日本で育まれた禅。
まったく別の文化で生まれたのに、
「心のとらわれから自由になる」
という同じゴールを指しています。
「ヨガとは心の働きを止滅することである」
—『ヨガ・スートラ』
ヨガでは、思考や感情が暴走している状態を
「チッタ・ヴリッティ」と呼びます。
ここで目指すのは、思考そのものを消すことではなく、
思考に振り回されない状態になることです。
「心意識の測量を止めよ」
—(普勧坐禅儀/道元禅師)
道元禅師は、判断や価値づけし続ける思考を「測量」と表現しました。
禅でもまた、思考の暴走を止めることより、
思考に縛られずに今ここに戻ることを重視します。
どちらも共通しているのは、次のことです。
「考えを止める」のではなく、
「考えに支配されないこと」。
つまり、思考や感情というノイズに気づき、
それらを手放すことで、本来の感覚に還ることを目指します。
禅の言葉に「放下着(ほうげじゃく)」があります。
ここでの「手放す」とは、
諦めや無関心ではなく、余計な執着を解いて自由になること
―本来の自分に還る動きです。
ヨガも禅も、方法や入口は違っても、目指す先は同じです。
止めるのではなく、解き放つ。そこに、「静けさ」や「気づき」が生まれます。
*禅の思想をかたちにしたお寺については
👉禅宗のお寺とは——禅の思想をかたちにした建築文化 もおすすめです。
禅とヨガが共にある日常—動く瞑想、坐る瞑想
坐っているときだけが禅ではありません。
道元禅師は、
「行亦禅 坐亦禅(動くときも坐るときも禅)」と説きました。
掃除をする。
料理をする。
歩く。
その一つ一つに心を込めると、
行為が “作業” から “祈り” へと変わっていきます。
ヨガで身体がほどけていくと、感じる力が戻ってくる。
禅で心が澄んでいくと、今に気づく力が育っていく。
身体を通して「感じるヨガ」。
心を通して「澄ます禅」。
入口は違っても、どちらも「自分とつながり直す時間」。
日常の中でふと深呼吸ができたなら、
それだけで、もう禅は始まっています。
富士山麓で「今」に戻る — 禅リトリート(耕雲院)
山梨県都留市、富士山の伏流水が流れる静かな谷あいに佇む禅寺・耕雲院。
山の音、鳥の声、風の匂い。そこにあるのは、何かをしなければいけない時間ではなく、
“ただ存在していい時間”です。
坐禅で心を澄ませ、ヨガで身体をひらき、写経で思考を整える。
ゆっくりと、呼吸が深くなっていくにつれ、
頭の中に溜め込んでいた「ノイズ」が少しずつほどけていきます。
ここでは、結果を求めなくていい。
うまくやろうとしなくていい。
ただ呼吸し、ただ感じる。
静けさは外側に探しにいくものではなく、
ふとした瞬間に、自分の内側から立ち上がってきます。
*他の禅寺を知りたい方
👉お寺で出会う禅|日本の禅寺を巡り、富士山麓・耕雲院で自分と向き合う旅
*坐禅の本質を深く知りたい方
👉禅寺 座禅|永平寺修行僧が語る、“修行としての坐禅”の意味
これらの記事とあわせて読むと、禅の世界が立体的に見えてきます。
富士山麓で禅を体験する — 耕雲院プログラム
- 所要時間: 約3〜4時間
- 内容: ヨガ・坐禅・写経 ※精進料理はオプション
- 費用: 10,000〜15,000円
- 場所: 山梨県都留市(富士山・河口湖から車で約40分)
※ヨガ経験がなくても大丈夫です。
※動きやすい服装であれば、特別な持ち物は不要です。
👉 詳細・予約はこちら → 耕雲院公式サイトリンク
耕雲院 副住職・河口智賢(かわぐち ちけん)
私は、山梨県都留市の曹洞宗 耕雲院で副住職を務めております、河口智賢(かわぐち ちけん)と申します。
大本山・永平寺での修行を経て、禅の実践とその心を現代に伝える活動を続けています。
映画『典座 –TENZO–』では主演を務め、カンヌ国際映画祭をはじめ世界各地で上映されました。
この作品を通じて、禅の精神が国や言葉を超えて人の心に届くことを実感しました。
耕雲院では、坐禅・写経・ヨガ・精進料理といった体験を通じ、
訪れる方がそれぞれの「今」と向き合う時間を私自身が直接ご案内しています。
禅は、特別な修行ではなく、誰にでも開かれた“生き方の実践”です。
その思いから、子ども食堂の運営やオンライン坐禅など、
日常の中に禅の精神を取り入れる取り組みも続けています。
禅は、特別な人の修行ではなく、誰にでも開かれた“生き方の実践” です。
初心があるから、人に寄り添える。
初心があるから、謙虚に学び続けられる。
富士山麓の自然のもと、
世界中の方々と「呼吸を整える時間」を共有できることが、私の喜びです。
体験者の声
「心の奥に“静けさの余白”が生まれました。」
日常では味わえない深い静寂に包まれる時間でした。自分の呼吸が“帰る場所”になる感覚を体験できました。「坐禅と法話が、自分の生活を見直すきっかけに。」
難しい言葉ではなく、日常の中の“禅”を優しく伝えてくださる方でした。家でも呼吸を意識するようになりました。「ヨガと坐禅の組み合わせが心地よかった。」
身体をほぐしてから坐ると、自然に呼吸が深まりました。富士山の空気と、河口さんの穏やかな声が印象的でした。
よくある質問(FAQ)
Q.初めてでも大丈夫ですか?
A. もちろんです。姿勢や呼吸法は最初に丁寧にご案内します。
Q.服装に決まりはありますか?
A. 動きやすい服装であれば問題ありません。
Q.写経や精進料理は全員参加ですか?
A. 写経は体験に含まれますが、精進料理はオプションです。ご希望の方のみご予約ください。
Q.坐禅中に眠くなってしまったら?
A. 眠くなるのは自然なことです。眠気に気づくことも禅の一部です。焦らず、呼吸に意識を戻してみてください。
Q.予約はどこからできますか?
A. こちらのお問い合わせフォームからご予約ください。
最後に—静けさは、動と静のあいだにある
ヨガと禅は、異なる道のようでいて、
どちらも「今ここ」に立ち返るための実践です。
ヨガは、身体を通して呼吸に気づく道。
禅は、静けさの中で心を澄ませる道。
富士山麓の耕雲院には、
ただ坐り、ただ呼吸する時間があります。
静けさは、どこか遠くにある特別なものではなく、
気づいた瞬間にそっとあらわれるもの。
呼吸が整い、心がやわらいだとき
—その静けさを、あなた自身で確かめに来てください。
